神経の接触不良

 私は飲食店でホールのアルバイトをしている。客層は年配、60代以上と思われる方が多い。また大通の地下街という立地もあり、路上生活者めいた人、競馬に入れ込む人など学校では接しない人種とコミュニケーションする。他のお店の事情は知らないが、所謂そういう人の割合が多いと感じる。

 

 ボケてるのかボケてないのか微妙なラインの人が来る。接客していて会話になっているか時々危うかったりする。でもそういう人たちにも調子というものがあって、調子が良い時は、私と同じ文脈を使ってやりとりが出来る。父も職業柄、わからなくなってしまった人とよく話すけれど、やっぱり調子というのはあるということだった。話していて、明らかに回路が繋がっていることを感じる。

 

 この調子の良し悪しは誰にでもあるなと思って、しばらく考えていた項目である。上に上げた例のような場合は、良し悪しの振れ幅が、五感をもって感じる事の出来る閾値を跨いでいる。そうでない場合は、どうなんだろう。良し悪しが社会的に支障のあるレベルで顕現しない人間というのはたくさん居て、そのうち回路の接触具合に自覚的であるのはどれくらいいるんだろう。

 

 少し逸れる。他人の言うことを鵜呑みにするなというのはよく言われていて、それは「その人も人間なんだからかならず正しいわけじゃない」という文脈だと思うんだけど、この時の「正しさ」というのは平均値の話であることが多い。仮に「Aという項目に対しては正しい(らしいが、Bという項目に対してはそうではない」とか「Aに対してBという部分は良いが、Cという部分は悪い」とか、項目ごとにその人の正しさを切り分けていると部分的に精査しているような気がするけれど、結局はある項目に対してのその人の平均値の話をしていて、もっと経時的な思考の揺らぎみたいな面もあると思う。人は時間と共に変わっていくことを心に留めてる人はいるけれど、それほど長いスケールではなくて、大仰なきっかけが在るわけでもなくて、もっと細かく人間は揺らいでいる。

 

 私の周りにいる優秀な人達が言うことを、私は逐一気にして、つまらないところで立ち尽くすことが多い。そういう時、揺らぎを恣意的に加味するのも、身を躱すひとつの方法であるように思う。あと、揺らぎを制するのは生活。各自、生活をしっかりやりましょう。